茜色に溶けていく地平線 穏やかに流れる大河のせせらぎ 星々が瞬く満天の夜空 素朴な人々の温かな微笑み 静かに息づく太古の森
そして
白トウモロコシ粉を沸騰水へ少量ずつ添加しながらヘラで撹拌し、デンプンの糊化(アルファ化)を極限まで均一に促した主食「シマ」の混練技術が異様に高い国――ザンビア。
かつてこの国に宇宙を夢見る青年が一人いました。
エドワード・ムクカ・ンコロソ。理科教師であった彼は1964年、こう宣言しました。
『アメリカとソ連より先に、ザンビアが月へ行く。』
米ソが数十億ドルを注ぎ込んでいた年です。
彼が用意したのは、ドラム缶1本と、木に吊るした綱と、12人の少年少女でした。
ドラム缶
1960年、ンコロソは「ザンビア国立科学・宇宙研究・哲学アカデミー」を名乗りました。
訓練場は、首都ルサカから11キロ離れた使われていない農場です。
そこで何をしていたか。
200リットルのドラム缶に人を入れて、荒れた斜面を転がします。 無重力と、大気圏に再突入するときの感覚を体に覚えさせるためです。
木に綱を吊るしてブランコにします。 そしていちばん高く上がったところで、誰かが綱を切ります。 地面に落ちるまでの数秒が、自由落下の訓練でした。
さらに、逆立ちで歩かせました。
「月面で人間が歩ける方法は、これ(逆立ち)しかない」彼は雄弁に語りました。 ※月の重力は地球の6分の1あるので、普通に歩けます。5年後、アポロの飛行士が実際にそうしました。
この訓練を受けていたのが、12人の少年少女です。
D-Kalu 1
ロケットの名前は「D-Kalu 1」。大統領ケネス・カウンダから取りました。
直径2メートル、高さ3メートルのドラム缶型。 材質についてンコロソは、「宇宙に耐えるアルミと銅」だと説明しています。
乗組員は3名です。
特別に訓練された17歳の少女、マタ・ムワンブワ。特別に訓練された猫、2匹。そして宣教師が1人。
行き先は火星でした。
宣教師には、あらかじめ指示が出ていました。火星人にキリスト教を強制してはならない。
打ち上げ予定日は1964年10月24日。ザンビアの独立記念日です。
さて、金が要ります。
ンコロソはユネスコに700万ポンドを申請しました。 これとは別に、海外の民間から19億ドルを集めるとしています。
1ペニーも下りませんでした。
そして政府が声明を出します。「その要請は、ザンビアを代表して行われたものではない」
それでも訓練は続きました。
計画が終わった理由は、金でも技術でもありません。
マタ・ムワンブワが妊娠したのです。 ※一応、正式な書類では相手が誰かは伝わっていません。一応。
家族が来て、彼女を実家へ連れ帰りました。
宇宙飛行士が親に回収されて、ザンビアの宇宙計画は消えました。
その後
当時、この計画は世界中で報じられています。 タイム誌が取り上げ、各国の記者がザンビアへ押しかけました。
笑い話としてです。
では、ンコロソという男は何者だったのでしょうか。
1919年生まれ。第二次世界大戦で英軍の北ローデシア連隊に徴集され、通信部隊の軍曹として戦っています。
戦後は政庁の通訳になりました。そのあと小学校の教師になり、やがて自分で学校を開きます。
その学校は、英国の当局に閉鎖されました。
彼は独立運動に入り、1956年と1957年に逮捕されて投獄されています。
宇宙計画を始めたのは、その後です。
そして1964年、彼は新聞にこう書きました。
「我々は本部の望遠鏡で火星を研究してきた。そして確信した。火星には原始的な先住民が住んでいる」
「我々のロケット乗組員は準備ができている。特別に訓練された宇宙少女マタ・ムワンブワ、2匹の猫(これも特別に訓練済み)、そして宣教師が、最初のロケットで打ち上げられる」
作家のナムワリ・セルペルは、この一節を植民地の言葉の裏返しとして読みました。
望遠鏡で覗く。住んでいる者を「原始的な先住民」と呼ぶ。そこへ宣教師を送り込む。
イギリスがアフリカにやったことと、同じ順序です。
セルペルはこう書いています。
「問うべきは、ザンビア宇宙計画が風刺だったかどうかではない。なぜそう考えた者がほとんどいなかったか、である」
ただし、2016年にカウンダ元大統領本人がこう述べています。
「あれは本物じゃなかった。何よりも、遊びだった」
ンコロソは1972年に引退し、1983年にザンビア大学で法学の学位を取りました。 1989年3月4日に死去し、大統領礼をもって葬られています。
そして、あの指示が残っています。
火星人にキリスト教を強制してはならない。
これを書いたのは、宣教師の学校で教育を受け、自分で開いた学校を当局に閉鎖された男です。
こういった話を不定期に書いています。 もしよろしければ、読者になって一緒に楽しみましょう。
まとめ
- エドワード・ムクカ・ンコロソ(1919-1989)は、1960年に「ザンビア国立科学・宇宙研究・哲学アカデミー」を設立し、1964年に米ソより先に月へ行くと宣言した
- 訓練場はルサカから11キロの使われていない農場。200リットルのドラム缶に人を入れて斜面を転がし、無重力と大気圏再突入を模した
- 木に吊るした綱でブランコをこがせ、最高点で綱を切って自由落下を体験させた
- 逆立ちで歩かせた。「月面で人間が歩ける方法はこれしかない」というのが理由。※実際には月の重力は地球の6分の1あるので普通に歩ける
- 訓練生は12人の少年少女
- ロケットは「D-Kalu 1」(大統領ケネス・カウンダから命名)。直径2メートル、高さ3メートルのドラム缶型で、ンコロソは「宇宙に耐えるアルミと銅」製だとした
- 乗組員は17歳の少女マタ・ムワンブワ、特別に訓練された猫2匹、宣教師1人。 行き先は火星。宣教師には「火星人にキリスト教を強制するな」と指示があった
- 打ち上げ予定は1964年10月24日のザンビア独立記念日
- ユネスコに700万ポンド、海外民間に19億ドルを申請したが1ペニーも下りず、政府は「ザンビアを代表した要請ではない」と否認した
- 計画が終わった理由は技術でも金でもない。マタ・ムワンブワが妊娠し、家族が実家へ連れ帰ったからである
- 当時タイム誌が報じ、各国の記者が押しかけた。笑い話として扱われた
- ンコロソは第二次大戦で英軍北ローデシア連隊の軍曹、戦後は政庁の通訳、のち教師。自分で開いた学校を英当局に閉鎖され、1956年と1957年に投獄された独立運動家だった
- 1964年の寄稿に「火星には原始的な先住民が住んでいる」と書いている。作家ナムワリ・セルペルはこれを植民地の語彙の裏返しと読み、「問うべきは風刺だったかどうかではなく、なぜそう考えた者がほとんどいなかったかだ」とした
- 一方、カウンダ元大統領は2016年に「本物じゃなかった。何よりも遊びだった」と述べている
- ンコロソは1972年に引退、1983年にザンビア大学で法学の学位を取り、1989年3月4日に死去。大統領礼で葬られた
出典
- Edward Makuka Nkoloso(Wikipedia) 生没年、アカデミーの設立、訓練方法(ドラム缶・ブランコ)、ロケットD-Kalu 1の名称と寸法と材質、マタ・ムワンブワの妊娠と離脱、ユネスコへの700万ポンド申請と19億ドルの調達計画、政府の否認、1972年の引退、1983年の法学位、1989年3月4日の死去と大統領礼での埋葬、カウンダの2016年の発言
- スミソニアン国立航空宇宙博物館/Open Culture/SpaceflightHistories ほか 訓練場の位置(ルサカから11キロ)、逆立ち歩行の訓練とその理由、綱を最高点で切る手順、訓練生12人、タイム誌の報道と各国記者の来訪
- Namwali Serpell「The Zambian 'Afronaut' Who Wanted To Join the Space Race」(The New Yorker, 2017)についての紹介記事(Brittle Paper ほか) 1964年の寄稿の引用、風刺・反植民地としての読み、「問うべきは風刺だったかどうかではない」の一節
- Face2Face Africa ほか 1964年の寄稿の乗組員に関する一節
※セルペルのニューヨーカー誌の記事そのものには当たれていません。引用はいずれも紹介記事を経由したものです。また、乗組員とされた「宣教師」が実在の誰かを指すのか、構想上の役職なのかは確認できていません。訓練生12人のその後も追えていません。
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